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● 蚤のワルツ 5

(このページの内容は「蚤のワルツ 4」の話の続きです.まだそちらをお読みいただいてない方は,先にそちらをお読みください.)

では,「緊急特別企画 作曲者 F.Loh の謎に迫る!」の後編です.(いつからそんなタイトルになった?)

まずは問題の録音を聴いていただきましょう.著作権がありますので,すみませんが一部分のみです.
いや,これが本当に“Ferdinand Loh”の作曲で当時の録音であるなら,作曲の著作権も演奏の著作隣接権もとっくに消滅していることになるのですが,私はこれからそれが嘘であるということを立証しようとしているのですから,著作権は生きていることを前提にしなければなりません.

最初の部分floh1a.mp3 (83 KB)
最後の部分floh1b.mp3 (83 KB)
Wergo 「Flohwalzer」より引用

確かに昔の蓄音機による録音のように聞こえます.もしこれが本物でないとしたら,どのようにして作られたものでしょうか?
方法としては二通り考えられると思います.
一つは,実際に蓄音機を使って録音した可能性です.本当に昔の蓄音機を使うのは難しいかも知れませんが,当時のものでなくても模造品のようなものでも構わない訳ですし,蓄音機自体を見せる訳ではありませんから,原理的に同じようなものであれば,必ずしも当時の蓄音機と同じ形をしたものでなくても構わないでしょう.その場合は,調べてみても恐らくおかしなところは見つからないでしょう.
もう一つは,コンピュータや何らかの音響機器を使って,それらしく録音を作った可能性です.それなら何か証拠が見つかるかも知れません.
そこで,そのようにして作られたものであると仮定して,何かその痕跡がないかを調べてみることにしました.

私が着目したのはノイズの部分です.録音全体に渡ってスクラッチ ノイズが入っています.最初に少し大きいノイズ(針を置いた音?)があって,その後は周期的なノイズがあります.
この周期は蓄音機の円盤または円筒の回転に対応したものでしょう.回転ムラや,円盤・円筒の表面の状態が一様でないことなどにより,一回転毎にノイズに一定のパターンが現れる(という設定で作った)のでしょう.
演奏の前後にノイズだけの部分があります.この部分の波形を次に示します.(一部波形が図からはみ出しています)

演奏前の部分
演奏後の部分

演奏が終わった後に 2 周期分と少しのノイズがあります.
スクラッチ ノイズは表面の細かい傷などで生ずるので,その出方はランダムに近いもののはずです.複数の音溝にまたがった傷などがあれば,同じ位置で同じようなノイズが出ることもあるでしょうが,多くのノイズは 1 回転毎に違ったものになるはずです.
回転ムラなどでノイズの大きさや密度にある程度パターンができることも考えられますが,個々のノイズについて見れば,毎回の回転でそう同じような位置や大きさになるとは思えません.
それにしては,この 2 周期分位のノイズは波形が似すぎているように思います.
演奏前の部分にもよく似た波形があります.図の矢印で示した箇所です.
隣り合った音溝なら,円盤・円筒の表面の状態も似ていると思われるので,ある程度似たパターンになるかも知れませんが,録音の最初と最後でこれほど似たパターンになるでしょうか? ちょっと不自然な感じがします.

私はこれを,演奏の録音とは別に 1 周期分(1 回転分)のノイズを用意して,それを演奏の録音に繰り返し重ねることによって,古い録音のように作ったものではないかと推測しました.
そこで,最後の 2 周期分のノイズを詳しく比較してみました.

ここから先の話は,CD にどのように音が記録されているかを知らないと解りにくいと思いますが,それをここで詳しく説明していると長くなってしまいますので,詳しくお知りになりたい方はそういうことを解説しているページなどで調べていただきたいと思います.
簡単に書くと,音楽 CD はサンプリング周波数 44.1 KHz,量子化 16 ビットの PCM 方式で記録されています.音の振幅(波の大きさ)を毎秒 44100 回調べ,それを 0 〜 65535(= 216-1)の範囲の数値で表して記録したものです(細かい事を言うと,負の値は 2 の補数表現ですが).
数値で記録されているので,二つの音が同じかどうか数値を比較することで調べることができます.また,数値を加算すれば二つの音を合成することもできます.

さて,2 周期分のノイズの比較ですが,この部分を記録しているデータの数値を比較してみた訳です.
初めは二つのデータが完全に一致することを期待したのですが,二つのデータはよく似てはいるものの,完全に同じではありませんでした.推測は間違っていたのでしょうか?
この理由は次のようなものだと思います.
この部分では演奏はもう終わっていますが,ここも演奏が終わった後の無音状態を録音したものにノイズを重ねているのではないかと思います.
そうだとすれば,元の録音には演奏の音はなくても僅かなノイズが録音されていると思われます.また,マイクから入る音以外に,録音装置の電気回路で発生する熱雑音などのノイズもあるはずです.
加えたノイズ以外に録音に元から入っていた僅かなノイズのために,二つのデータが完全には一致しなかったのではないでしょうか.

データが完全に一致したのなら,それだけでもこの録音が作られたものである証拠として充分だと思いますが,これだけでそう言い切るにはちょっと無理があります.そこで,次のようなことを考えました.
この録音がノイズを加えることによって作られたものなら,加えたノイズを差し引けば元の演奏の録音が再現できるのではないでしょうか?
本物の録音でもある程度ノイズを取り除くことは多分可能です.演奏とノイズの周波数の違いを利用してフィルタをかけるなどすれば,ある程度ノイズを軽減することはできるだろうと思います.しかし,それはあくまでも「ある程度」であって,完全に取り除くことは不可能です.
でもこの場合は違います.加えたものが判っているのですから,その分を差し引けば元の状態に戻るはずです.
正確には,加えたノイズそのものが判っている訳ではありませんが,演奏の後の部分のノイズは加えたものとほとんど同じはずですから,それを代わりに使ってもノイズのほとんどは除去できるのではないかと考えました.
もしこれがうまく行けば,演奏に重なっているノイズもすべて同じものであることが間接的に証明できます.

まずその準備として各ノイズの位置を調べました.位置が判らなければノイズを差し引くこともできません.
次の図は,録音の最後のもう少し長い部分を,横方向(時間軸)の縮尺を縮めて表したものです.


このノイズには二箇所,特に振幅の大きなところがあります.それを目印にしてノイズの位置を特定することができます.
図の*の箇所がそうです.(データは演奏と合成されたものになるため,振幅は場所によって異なります.)これらの位置を調べると,データ数で 34304 個,時間にして約 0.78 秒の間隔で正確に並んでいることが判りました.
ところが,演奏前の部分にあった同じパターンのノイズだけは,この間隔と全く違う位置にあることが判りました.これはどういうことなのでしょうか?
ではどこまでこの間隔と一致しているのかというと,録音の最初から約 3 秒の位置まででした.録音の最初から数えて 137579 番目のデータ,時間にして約 3.12 秒の位置にこの振幅の大きなところがあります.実際に加えられているノイズの開始点がどこかは正確には特定できませんが,3.12 秒の点とそこから手前 0.78 秒の点の間のどこかということになります.
約 3 秒の位置から最後まではノイズがきれいに等間隔で並んでいますが,それより前の部分は不規則で,その中に一箇所同じパターンのノイズがあります.
私はこれを次のように推測しました.

この録音は次のようにして作られたものだと思います.
  1. まず適当なノイズを用意します.これはたとえば,古いレコードの無音部分などを録音して作ることもできます.

  2. それを演奏の録音の先頭に重ねます.

  3. ノイズの中から適当な長さの部分を切り出して,それを演奏の録音の残りの部分に繰り返し重ねて行きます.
こうすれば,最初の部分には針を置いたような音を入れることができますし,繰り返しの部分が周期的なノイズになるので,それがあたかも円盤・円筒の回転に伴って出るノイズのように聞こえます.

最初のノイズだけが不規則な位置にあることは,この録音が作られたものであることの証拠のひとつと言えると思います.
この録音が本当に生の録音であるなら,回転ムラなどによって各ノイズの位置は微妙にずれ,このように正確な間隔にはならないと思います.その代わり,最初の部分のノイズもほぼその間隔上の位置に並ぶはずです.
ノイズの位置が正確に一致していることはそれ自体も不自然ですし,他のノイズがそれほど正確に並んでいるのに,ひとつのノイズだけ全く違う位置にあることは,このデータが何らかの加工を施されたものであることを裏付けていると思います.

さて,最初の部分以外は完全に周期的になっているのが確認できたので,3 秒以降の部分について,上で述べたようにノイズのデータを差し引く処理をしてみます.
録音の最後の部分から 1 周期分のノイズを取り出します.実際に加えられているノイズの開始点は判りませんが,1 周期分であればどこを取り出しても大差はないはずです.演奏の後に上記の振幅の大きなところが 2 箇所ありますので,判りやすいよう振幅の大きなところで切り取ることにします.それを,振幅の大きなところを目印にして各ノイズとの位置を合わせ,録音のデータからノイズのデータを差し引いて行きます.
私の推測が正しければ,ノイズが除去されてきれいな音になるはずです.
結果は次のとおりです.

最初の部分floh2a.mp3 (83 KB)
最後の部分floh2b.mp3 (83 KB)

ノイズはかなりよく除去できています.理屈ではほぼ完全に消えるはずですが,録音の最初の方(ただし 3 秒以降)には少しノイズが残っています.しかし最後の方では確かにノイズはほぼ完全になくなっています.
最初と最後では何が違うのでしょうか? これは推測ですが,ノイズを重ねた後で音量を調整したのではないかと思います.そのため,最初と最後ではノイズの音量が少し違うのではないでしょうか.だから,最後の部分から取り出したノイズを使うと最後の方はきれいに消えて,最初の方は音量の差の分が誤差となって少し残るのではないかと思います.

少しノイズは残りましたが,この結果は私の仮説を裏付けるのに充分なものと考えます.
古い蓄音機の録音から 1 回転分のノイズ データを取り出して他の部分のデータから差し引いたら,ノイズが消えてきれいになった,などということは普通では考えられません.

さらに検証を確かなものにするため,次のような実験をしてみました.

ノイズを差し引く際,わざとデータ 1 個分位置をずらして処理してみます.
結果はこのようになりました.

最初の部分floh3a.mp3 (83 KB)
最後の部分floh3b.mp3 (83 KB)

元の何も処理をしていないものと比べればある程度ノイズは抑えられてはいますが,先程のようにきれいにはなりません.
位置をデータ 1 個分ずらしただけでもこれだけノイズが残り,完全に位置を合わせるとノイズはほぼ消える,これはすなわち,各周期内の個々のノイズの位置がデータ 1 個分,約 0.023ms の精度で正確に一致していることを意味しています.同じデータをコピーしたのでなければ,そのようなことが起こるはずはありません.

もうひとつ実験をしてみました.
最初から約 3 秒の位置から最後まで 120 周期分と少し,同じノイズが加えられたと思われるデータがあります.その 120 組のデータをすべて加算して,それを 120 で割ってみました.これには次のような意味があります.
たとえば,最後の 2 組のデータは微妙に異なるものでした.それは,ノイズを加える前のデータに元々少しノイズがあったためと推測した訳ですが,その 2 組のデータを足して 2 で割るとどうなるでしょう? 加えたノイズは両方同じものですから,足して 2 で割っても元のデータと変りません.しかし元からあったノイズは,対応する位置の一方にしかノイズがなければ,足して 2 で割ると半分になります.
そのように何組ものデータを平均すると,加えたノイズ,すなわちどの組にも同じように含まれているデータ以外は,打ち消し合って消えるはずです.
ちょっと考えると,そのようにしてもデータがならされるだけで,消えることはないように思えるかも知れません.また,ノイズはまばらだから平均すれば小さくなるが,演奏の音は平均化しても消えないのではないかと思われるかも知れません.
しかし,音というのは振動です.音のデータは無音のときの値を中心に,正負の方向に振動します.多くのデータを平均した値は正方向と負方向のデータが打ち消し合って,振動の中心すなわち無音のときの値に近づくはずです.

データの数が 120 組とそれほど多くないので,完全に消えるまでにはならないだろうと思いますが,とりあえず試しにやってみました.
結果は次のようなものです.判りやすいように,できたデータを二つつなげてあります.

floh4.mp3 (19 KB)

スクラッチ ノイズとは違う音が少し聞こえますが,これがピアノの音の名残でしょう.たかだか 120 組のデータでここまで演奏の音が小さくなるとは思いませんでした.
ピアノの音はほとんど消えていますが,ノイズの音量は変っていません.各周期に含まれるノイズが全く同じものだからです.

演奏の音が思ったより小さくなったので,このデータを使ってノイズを消してみることにしました.上では録音の最後の部分から取り出したノイズのデータを使ってノイズを消しましたが,その代わりにこのデータを使って同じことをやってみるのです.
その結果です.

最初の部分floh5a.mp3 (83 KB)
最後の部分floh5b.mp3 (83 KB)

やはり同じように,スクラッチ ノイズはほぼ除去されています.
ピアノの音が消えずに残ったものがノイズになりますが,スクラッチ ノイズだけに注目すると,最初の部分については前よりやや小さくなったように思います.その代わり,最後の部分にも少しノイズが現われています.
これは,録音全体から平均化して取り出したノイズを使ったため,ノイズの音量が平均化されたためと思われます.やはり最初の方と最後の方では少し音量が変っているようです.

さあ,ここまで調べればもう間違いないでしょう.以上の証拠を以て私は断定します.「奥さん,犯人はあなただ!」 …違った「この録音は捏造だ!」.


最後にちょっとイタズラで,私も蓄音機録音を作ってみました.
まず,元になる演奏を用意します.
mary1.mp3 (107 KB)

高域をカットして音質を落とします.
mary2.mp3 (107 KB)

これにノイズを重ねます.ノイズはこの CD から取り出したものをそのまま使わせてもらいました.
mary3.mp3 (140 KB)

これで蓄音機録音の出来上がりです.この CD のように,最初に針を置いた音を付けたりすれば,さらに本物っぽくなるでしょう.
これを作るのに使ったのは普通のパソコンと,フリーウェアで手に入るサウンド エディタなどのツールだけです.このようなものは簡単に作ることができるのです.


録音が作り物である以上,作曲者が“Ferdinand Loh”であるというのも作り話と考えるのが妥当です.やはりこれはバウマンさんのイタズラだったのです.
「蚤のワルツ」の作曲者としては,他にも何人かの名前が候補として挙がってはいるようですが,どの説もまだ広く認められるには至っていないようです.
果たして,本当の作曲者が見つかる日は来るのでしょうか?